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拉致の記憶~蓮池兄がたどる拉致事件④

私はこの記事を読んで、弟たちの他にもいなくなった若い人たちがいることを初めて知った。だが、その記事を読んでも、弟の失踪が外国の工作機関の仕業だとは、にわかに信じることはできなかった。今考えてみれば大スクープであるのだが、私にも両親にも、弟が外国の機関に拉致されたとは考えられなかったのだ。
この記事は一度続報が出たものの、後を追うマスコミはなかった。結局、この記事に書かれたように、外国工作機関と弟との関係を考えることはできずに終わった。地元では「蓮池の次男坊は、UFOに連れ去られた」と噂されるなど、私たち家族はどうしようもない状況に追いやられた。
母は、横田めぐみさんの事件との関連を考えていたようだが、私は、中学生だった横田めぐみさんの事件は金目当ての誘拐の可能性があると思っていたため、弟のケースとは関係ないと考えていた。

●弟は最初からいなかったことにしよう…

ある日、私は妹にこう話しかけた。
「おい、俺たちは二人兄弟だったことにしよう」
「どういう意味?」妹は戸惑う表情を見せた。
「つまり、だ…薫はいなかったってことだ…」
「薫はいないって、いなくなったってこと?」
「いなくなったんじゃなくて、最初からいなかったんだ」
「最初から?」
「親父やお袋を見ていると、もう辛くてな」
「そういうことね…」
両親は、弟は必ずどこかで生きていて必ず帰ってくるとの思いを持ち続けていたが、手がかりがない状況があまりにも長く続き、塞ぎ込む姿を見るに見かねて私はそう言ったのだった。
しかし、私の言葉はかえって両親を悲しませることとなり後悔したことは忘れない。
「子供は二人だったことにしようよ」
思い切って切り出した私に、母親は顔の表情を変えて言った。
「なんて馬鹿なことを言うんだい…悲しいよ」


●テレビの家出人捜索番組で呼び掛ける

今はもう観ることはないが、かつてはテレビで家出人捜索番組というものがあった。弟が失踪して7、8年後だったと思う、両親は、TBSの番組に出演した。弟の写真を示して、「薫、このテレビを観ていたら連絡ください」とカメラに向かって訴えたのである。しかし全く情報は寄せられなかった。
それから数年後、今度は、日本テレビの同様の番組に出演した。他に4組の家出人家族が出ていて、その人たちには視聴者からどんどん電話がかかって来るのだが、両親のところにはなかなかかかって来ない。ようやくかかってきた電話はの1本は「東京山谷で見た」、もう1本は「名古屋のパチンコ屋で見た」というものだった。いずれも、曖昧な情報であったが、それでも両親は山谷の木賃宿を弟の写真を持って回った。しかし、何の情報も得られなかった。
私は、次の週末の早朝、名古屋を目指し新幹線に乗った。車中で「名古屋といえばパチンコ発祥の地と言われる。一体何軒あるのか」と気が遠くなる思いがした。しかし気を取り直し、到着後手当たりしだいにパチンコ店を巡った。
弟の写真を見せて「この人を知りませんか」「こういう人働いていませんか」と尋ね歩いた。しかし終電になるまでに消息を得ることはできなかった。
(続く)

<<執筆者プロフィール>>

蓮池透
1955年新潟県柏崎市生まれ。東京理科大学理工学部卒業。 東京電力に入社し、原子燃料部部長などを歴任、2009年退社。その間、「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」事務局長、副代表として拉致問題の解決に尽力。2010年、考え方の違いから同会除名。著書に「奪還 引き裂かれた24年」(新潮社、2003年)、「奪還第二章 終わらざる闘い」(新潮社、2005年)、「拉致 左右の垣根を超えた闘いへ」(かもがわ出版、2009年)、「私が愛した東京電力 福島第一原発の保守管理者として」(かもがわ出版、2011年)など。

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