ニュースのタネ

調査報道NPO「ニュースのタネ」

拉致の記憶~蓮池兄がたどる拉致事件

思い出の家族スキー。左から、母、妹、父、筆者、薫氏。赤倉温泉スキー場にて1975年

思い出の家族スキー。左から、母、妹、父、筆者、薫氏。赤倉温泉スキー場にて1975年

拉致の事実を北朝鮮の金正日総書記が認めて13年。一時は解決に向けて動くかと思われた拉致問題は暗礁に乗り上げた状態が続いている。誰もが「拉致問題の解決」を口にするが、私たちは拉致問題を本当に知っているのか?拉致被害者の兄としてこの問題に取り組んできた蓮池透氏が、今一度、拉致問題について振り返る。そこには私たちが知らない、或いは見ようとしない拉致問題の真実があった。

●弟がいなくなった

弟の薫がいなくなったのは、忘れもしない1978年7月31日のことである。弟は東京の中央大学法学部の3年生で、夏休みを利用して、新潟県柏崎市の実家に10日間程度の予定で帰省していた最中だった。私はそのときは東京電力株式会社福島第一原子力発電所に勤務していたので、柏崎では弟に会っていない。
私たちは3人兄弟で、薫の下に妹がいるのだが、当時は名古屋の大学で学んでいた。その妹が出場するテニス大会が福島市内で開催されるため、弟と母が一緒に翌日の8月1日に福島を訪れる予定になっていた。私も仕事を切り上げて福島市に行く予定にしており、皆で妹を応援するのを楽しみにしていた。

●遺留品は自転車だけ

ところが、8月1日の朝、突然母のハツイから電話がかかってきた。

「もう出発しなければいけないのに薫がいないんだよ」

多少、狼狽していたようだが、差し迫った問題と考えている風ではなかった。弟は麻雀が好きだったから、またどこかで徹夜麻雀でもして、友達の家で寝てしまっているのではないかと、その程度の気持ちでいた。

「とにかく、いろいろな友達の所へ電話して聞いてごらんよ」と母に言った。

「友達の所とかめぼしいところには電話してみたんだけど…」と母。

「もっとやってみたら?」と私。

母は弟が残していった手帳に書いてある住所、電話番号などには連絡を取ってみたのだがいないということであった。

「…どうしたんだろう?」

軽い気持ちでいた私もだんだん心配になってきた。

母の話では、弟は、7月31日の夕方5時半ごろ、祖母の自転車を借りて「ちょっとでかけてきます」と言って実家を出ていったそうである。出る時は特に何も言っていなかったという。


Return Top